室町時代末期から、千家十職の土風炉師を勤める永楽家。
初代宗禅より11代保全までは、西村姓を名乗る。
永楽姓は、12代和全の途中から始まる。
10代了全の時に土風炉だけでなく茶陶の分野にも進出。
西村宗禅(初代) (?-1558年)
西村宗善(2代) (?-1594年)
西村宗全(3代) (?-1623年)
西村宗雲(4代) (?-1654年)
西村宗筌(5代) (?-1697年)
西村宗貞(6代) (?-1741年)
西村宗順(7代) (?-1744年)
西村宗圓(8代) (?-1769年)
西村宗巌(9代) (?-1779年)
永樂了全(10代) (1770年-1841年)
九代善五郎の息子。
天明の大火により全焼した西村家を立て直して工房を整備し、 善五郎の歴史上屈指の名工である保全を養子に迎えて育てるなど、その功績は大きい。
また、千家出入りになったのも了全の代からである。
樂了入(九代樂吉左衛門)と親交があり、同じ町内に移り住むほどの影響を受ける。
永樂保全(11代) (1795年-1855年)
保全は青木木米、仁阿弥道八とともに、幕末の京焼の名工の一人といわれ、今日の永楽焼の家祖。
1827年に、紀州藩十代藩主徳川治寶の別邸西浜御殿の御庭焼開窯に招かれ、
作品を賞して「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印「永樂」の銀印を拝領した。
以降、「永樂」の印章を用いると共に12代・和全の代から永樂姓を名乗り、さかのぼって了全と保全も永樂の名で呼ばれている。
永樂和全(12代) (1822年-1896年)
1823年(文政6年)永樂保全(十一代善五郎)の長男、仙太郎として生まれる。母は2年後に没。
1843年(天保14年)十二代善五郎を襲名。
1847年(弘化4年)酒造業木屋久四郎の長女、コウと結婚。
1852年(嘉永5年)このころ仁清窯跡に築窯。
1853年(嘉永6年)長男の常次郎(後の得全)生まれる。
1865年(慶応元年)この頃から「和全」の銘を使用する。
1866年(慶応2年)宗三郎・常次郎と共に九谷焼の指導のため山代春日山に赴く。
1870年(明治3年)九谷から京へ戻る。
1871年(明治4年)得全に善五郎の名を譲り、善一郎と名乗る。また西村姓を永樂姓に改姓。
1872年(明治5年)三河国岡崎の豪商・鈴木利蔵に招かれ、岡崎の甲山に築窯。
1877年(明治10年)岡崎での作陶を終え、帰京する。
1882年(明治15年)一条橋橋詰町から洛東高台寺鷲尾町に転居し、菊谷焼を始める。妻・コウ没。
1883年(明治16年)聴力を失う。
1885年(明治18年)鷲尾町から祇園に転居。
1892年(明治25年)祇園から建仁寺塔頭の正伝院に転居。
1896年(明治29年)5月7日、74歳で亡くなる。
永樂回全(13代)-13代は二人
永樂曲全(13代)-13代は二人
永樂得全(14代) (1852年-1909年)
嘉永6年生まれ、京都の人。12代永楽和全の長男で14代善五郎。
三井家、鴻池家の庇護を受け、仁清写、呉須赤絵を得意とする。
明治42年没 57歳。
永樂妙全-14代の室 (1852年-1927年)
本名:悠 号:妙全
千家職家(千家十職) 十四代得全の妻。
得全没後十四代善五郎を名乗り家業を守り、十五代善五郎の養育に尽力。
1914(大正3)には三井高棟より「妙全」の号を賜り、作品の箱書には
十四代得全の落款と小柴庵三井高保より賜った「悠」の一字を捺印している。
惺斎宗左好みのものをよく造り女性らしい優雅な作品をよく残す。
永樂正全(15代) (1879年-1932年)
得全亡き後、叔母の悠(妙全)(得全の妻)を助けて家職をつとめ、妙全の死後、家業を預かり正全となる。
妙全は女性のため代の中には入っていないが、明治42年より没する昭和2年までの19年にわたって
家業を継続し、今日の永楽家の家礎を築いた。
永樂即全(16代) (1917年-1998年)
京都市に生まれる。父は十五代永楽正全。
父亡き後、昭和9年に善五郎を襲名する。
34年結成の 京都伝統 陶芸協会 初代会長。
三千家の職方として務めをはたすとともに、千家十職による千松会や十備会に出品。
永樂善五郎(17代) (1944年-)
昭和19年(1944)、京都府生まれ。十六代善五郎の長男。
東京芸大日本画科、大学院陶芸科修了。
父・十六代善五郎に師事。
平成10年(1998)、十七代善五郎襲名。
日本工芸会正会員