今村紫紅(いまむら しこう)

生涯

1880年(明治13年) – 1916年(大正5年)

今村寿三郎(後の紫紅)は、横浜市尾上町に住む今村岩五郎の三男として生まれる。寿三郎は15歳ごろ山田馬介という画家に水彩画を学び、干支に因んで「龍介」の雅号を貰う。1898年岡倉天心が東京美術学校校長を排斥され辞職。同時に横山大観、橋本雅邦、下村観山、菱田春草ら17名も天心に殉じ辞職し日本美術院を結成。1898年、様々な美しい色彩を表す「千紫万紅」から二字を取り、自ら「紫江」と号す。芸術的革新性と、若手の親分格としての豪放な性格から、将来を大いに期待されたが、酒による肝臓病と脳溢血のため、35歳で死去。

評価額 6000万円

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収蔵作品

秋景山水

本紙 XX.0 × XX.0センチ

軸  XX.5 × XX.0センチ

箱:共箱 軸先:骨 本紙:紙本 状態:シミ、焼け、時代による劣化あり