小川芋銭(おがわ うせん)

生涯

1868年(慶応4年) – 1938年(昭和13年)

本名:小川茂吉、幼名:不動太郎。1年後に茂吉(しげきち)と改名。小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、1887年(明治20年)尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に一時雇われの画工として入社、挿絵や漫画を描く。後に本格的な日本画を目指し、1915年(大正4年)川端龍子らと珊瑚会を結成。1917年(大正6年)、 横山大観に認められ日本美術院同人となる。1935年(昭和10年) 、帝国美術院参与。1938年(昭和13年) 、牛久の自宅で死去。享年71歳。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。

評価額 1500万円

収蔵作品