竹内栖鳳(たけうち せいほう)

生涯

1864年(明治元年) – 1942年(昭和17年)

京都府京都市中京区御池通油小路の川魚料理屋「亀政」の一人息子。本名は恒吉。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の円山・四条派の幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。1887年(明治20年)、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。1899年(明治32年)、京都市立美術工芸学校の教諭に推挙された。1900年(明治33年)、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受け、7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改めた。1909年(明治42年)、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任。1924年(大正13年)にフランスのレジオンドヌール勲章、1931年(昭和6年)にハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞、そして1937年(昭和12年)に第1回文化勲章を受けた。1942年に肺炎を患い、湯河原の天野屋にて死去した。享年78歳。

評価額 8000万円

収蔵作品