奥村土牛(おくむら とぎゅう)

生涯

1889年〈明治22年〉 – 1990年〈平成2年〉

東京京橋に出版社藍外堂を営む奥村金次郎、たまの長男として生まれ、本名義三。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけた。明治32年、日本橋区城東尋常小学校尋常科を卒業し高等科に進むが、病弱のため1年で中退。明治38年、16才の時、梶田半古の画塾に入門し、塾頭だった小林古径の指導を受ける。大正6年、半古が没したのちは古径に師事した。大正12年、日本美術院研究員となる。昭和10年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授、昭和19年、東京美術学校講師、昭和23年、武蔵野美術大学講師、昭和26年、同大学教授、昭和24年、女子美術大学教授に就任。昭和22年、日本芸術院会員、昭和37年、文化勲章を受章。昭和53年、日本美術院理事長をつとめる。平成2年、脳梗塞のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年101。昭和に入り古径の画風を思わせる大正期の線的要素の強い画風から豊かな色彩の表現へと移行。描くことのみに専心した人生は、晩年「画聖」とも言われ、富士山を多く描いた。

評価額 6000万円

収蔵作品