太田垣蓮月(おおたがき れんげつ)

寛政三年(1791)~明治八年(1875)幕末京都三本木出身の尼僧。俗名は誠(のぶ)。
藤堂藩伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎六代良聖(よしきよ)の庶子。
生後十日余りで京都知恩院の寺士・太田垣常右衛門の養女となる。
十七才で大田垣家の養子望古(もちひさ)と結婚。
寛政十二年(1815)   離婚し、京都東山の知恩院のそばに住む。
文政二年(1819)     二十九歳の時、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚
文政六年(1823)  蓮月を名乗る。蓮月は陶器を製して売り、その収入で父を養い、和歌を詠む。
その後は岡崎・粟田・大原・北白川などを転々とし、急須・茶碗などを焼いて生計をたてる。
その名は高まり、自作の和歌を書きつけた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博す。
慶応三年(1867)    西賀茂の神光院の茶所に間借りして、境内の清掃と陶器制作に日をおくった。
明治元年(1868) 『蓮月高畠式部二女和歌集』の著作と、近藤芳樹編の蓮月歌集『海女の刈藻』を残す。
明治八年    八十五才で没。