尾形乾山(おがた けんざん)

江戸中期の陶芸家、画師。京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれる。
名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳(こうりん)は彼の次兄である。
富裕な商家に育ちながら2人とも商人にはならず、もっぱら文化的な素養を身につけ、自由な生活を楽しんだ。
1689年(元禄2)27歳のとき乾山は洛西(らくせい)双ヶ岡(ならびがおか)に習静堂という一書屋を構えて文人生活に入っている。
近くに高名な野々村仁清(ののむらにんせい)が活躍する御室(おむろ)焼があり、この窯に遊ぶうちに陶工になる決意を固め、
99年に2代仁清より陶法の秘伝を受け、近くの鳴滝泉谷(なるたきいずみだに)に窯を築いて本格的な製陶生活に入った。
この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」を窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身も雅号に用いている。
乾山は仁清に技術を学びながら、その様式を継承することをせず、兄光琳の創始した琳派(りんぱ)とよばれる復興大和絵(やまとえ)の
画風をみごとに意匠化することに成功し、一家をなすことができた。白化粧地に鉄絵や染付を使って表す装飾画風はまことに雅趣に満ち、
瀟洒(しょうしゃ)な作風は個性に輝いており、製品には師のかわりに「乾山」と筆で自署するのも画師と同じ芸術家意識を表している。
1712年(正徳2)に鳴滝から市中の二条丁字尾町に窯を移した時期から、彼の作陶は第2期に入るが、16年(享保1)に絵付に参画した
光琳が死亡したころは、陶業は不振をきたしたといえる。しかし彼の遺品をみると、得意とする白化粧地鉄絵、染付のほか、色絵にも新機軸を生み出し、
中国、朝鮮、オランダの陶芸を模倣し、京都では初めて磁器を焼出するなど、彼ほど新技術の進取に取り組んだ陶工も少ない。
その意欲的な精神は75歳の37年(元文2)に著した『陶工必用』に横溢(おういつ)している。
享保(きょうほう)(1716~36)の中ごろに江戸に赴き、晩年はこの地で送り、寛保(かんぽう)3年6月2日、81歳で没したが、
晩境にあっては絵画に名作を多く残し、「京兆」「平安城」を冠称して「紫翠(しすい)深省」と自署し、自ら京都文化の保持者であることを誇示した。

[矢部良明]