宮城県の陶磁器

堤焼
宮城県仙台市堤町の陶器である堤焼の始まりは、国分寺や多賀城の瓦が焼かれていた頃ろまでさかのぼる。そもそも士族が副業で生計を立てるため焼き始めた焼きものなので、当初はきわめて原始的なものだった。
元禄7年(1694年)四代藩主伊達綱村は江戸の陶工上村万右衛門を仙台に招き、茶器、花器を作らせ、「杉山焼」としたが、これにより素焼き程度の粗陶から、施釉陶器の完成にこぎつけ、堤焼の発展のきっかけとなった。
正徳5年(1715年)万右衛門の没後一時衰退したが、宝暦の頃(1751~64年)遠江国(静岡県)の人菅原善左衛門らによって支えられ、特に善左衛門は一種の型を用いた硬焼の瓶類の焼成に成功している。
しかし、天明年代(1781~1788年)の大飢饉によって、窯は大打撃を受け、風前の灯になるが、寛政を過ぎると(1800年以降)再び活況を取り戻し、仙台藩内の庶民の日曜雑器を焼くようになった。
明治3年(1870年)には、荘司源七郎義忠は、造船統梁として江戸から三浦乾也(六代乾山)について、技術を磨き、のちに「乾」という一字をもらいうけ、「乾馬」を名乗った。乾山風や三島風の諸手法を取り入れて、茶碗、茶入、花器、水差、壷などを焼いている。
戦後の堤焼きは、生活様式の変化などから、伝統の窯は次々と廃窯。現在残っている登窯は、針生家。一か所で、細々と操業している。
堤焼の器種は最初のころは藩に献上する茶器、花器が主であったが、以後は日用雑器が多く、特に黒柚の上に口縁から肩にかけてなまこ釉や褐色の釉をかけた瓶や徳利などが有名である。
いかにも東北らしい土の肌のぬくもりを持つた焼きものである。

切込焼
陸前国切込むら(宮城県加美郡宮崎町)で焼かれた磁器。
切込焼の創始は、伊達政宗のころ(江戸初め)とか天保年間(1830~44年)とかいわれているが、その中で天保説が有力である。
最盛期は江戸末期で茶器、皿、徳利などの日曜雑器が中心だが、染付磁器の中では、伊万里と判別できないほど良く似たものがある。
伝世している作には白磁の足付、角形の膳と組碗等があって、これらのできから想像してかなり高度な技術をもった職人がいたと考えられるが、残念ながら大正時代の窯を最後に絶えている。

白石焼
宮城県白石市福岡蔵本字萩の坂と鍋石に窯跡があるが、開窯年代は不明。しかし、伝世品や記録などから、東北地方の磁器としては最も古いとされ、18世紀の初めごろには既に興っていたようだ。
萩の坂。鍋石の窯跡から出土する磁器は、同じ磁器でも切込焼と比べて薄く、きゃしゃな感じがする。
器種はすず徳利・壷・皿・鉢・丸皿・角皿・火入・土瓶・湯呑み・猪口などで、多くは呉洲で文様を描いている。発掘品からが青磁や、黄と紫の釉のものもある。
またこの窯は陶器も焼いていたらしく、緑色の織部釉のかけられた皿や、内側に秋草文の沈刻された鉢もある。

新田焼(しんでんやき)
幕末から明治初頭にかけて栗原郡片馬合村(宮城県)で、佐藤繁治か陶器を焼いたが、彼が没したと同時に廃窯となった。
製品は壷・甕・花生・鉢類があり、自釉の流しがけに特徴をみせている。
「金成窯」と紹介されたものはこの新田焼である。

小蓋焼(こぶらやき)
登米郡米川村で焼かれていたといわれ、別名「かぶら陶器」と呼ばれたやきもの。
遺品には大小の甕・壷・切立・飯茶碗・茶器などがある。開窯年代は不詳。

塩内焼(しおないやき)
開窯年間は、天保年間(1830~44年)から明治40年ころまでで、柴田郡村田町塩内に築窯された。
製品には徳利・壷。花生・茶碗・火鉢・植木鉢・擂鉢・皿。片口などがあり、素朴ではあるが、東北地方の陶器と思えない趣もある。

末家焼(ぼっけやき)
亘理郡亘理村末家で焼かれた陶器で、元禄年問(1688~1704年)亘理領主の伊達実氏によって創始されたといわれているが、定かではない。
製品は徳利・鉢・壷・擂鉢などの日用雑器で、良質の陶土を用いている。

山ノ神焼(やまのかみやき)
登米部新田村山ノ神で了焼かれた陶器で、文化・文政年間(1804~30年)の開窯とされている。
製品は甕・濁酒瓶・仏花器・火鉢・捏鉢などの日用雑器で、内磐郡・栗原郡方面に売りさばかれたといわれる。