福島県の陶磁器

相馬焼(そうまやき)

福島県相馬巾中村および双葉郡浪江町大堀の陶器で前者は「相馬駒焼」または「田代駒焼」と称し、後者は「大堀相馬焼」あるいは「大堀焼」と区別されている。

相馬駒焼は、旧藩時代、藩直属のお留焼であった田代窯が、現在に至っており、大堀相馬焼は農民たちが庶民の日用雑記を焼成してきた民窯である。

福島県相馬市中村の相馬焼の窯の創始については諸説があるが、相馬駒焼の窯元田代家の伝えには元和元年(1623年)に相馬藩主利胤の命をうけて、田代源吾衛門が京の陶工仁清から陶法を学び、7年の修行ののちに師仁清から“清”の字を贈られ名を清治右衛門と改め、寛永7年(1630年)相馬中村城下に窯を築いた、とある。

しかし、これを実証する確かなものはなく、数少ない仁清、田代源吾衛門についての現在残っている古文書などから、源吾衛門は自ら京に上り、正保年間(1644~47年)には仁清についており、瀬戸焼の技術を覚えた。時に改名、中村城下に開窯したのは慶安元年(1684年)であろうと考えられている。

京から帰った清治右衛門は、当初は仁清風の茶碗などを焼いていたが、藩主義胤公から仁清の御室焼と違うものを作るようにという内旨があったため、工夫をかさね砂焼に製法を改めた。また、相馬藩の家紋にちなんで雲雀が原の野馬の跳躍する様了を鉄絵で描き、ここから相馬駒焼の駒絵が生れた。

この走馬図には、慶安元年、東北紀行の途中、申村城に立ち寄った木挽町狩野派の祖、狩野尚信が藩主の求めに応じて描いた雲雀が原の走馬図白下絵にしたという説もある。また、尚信自身か焼青で抹茶碗に走馬を描いたという説や、尚信が相馬の下絵を絵亡描いたという説などがあるが、どれもはっきりしない。

なお、この駒絵のついたやきものは田代窯のみで焼成されていたが、明治時代前後から田代以外の窯でも焼かれるようになった。そして、旧藩時代には御用窯の御留焼で、一般への市販が堅く禁じられていたこともあり、歴代の作品は数えるほどしか残っていない。

相馬駒焼の原材料は、現在でも昔ながらのものを使っており、相馬市坪田池上の山からとれる灰白色の木節粘土が主である。

普通、相馬焼と言えば、貫入のある青緑色をした青磁が思い出されるが、明治以前の相馬駒焼は、京焼や志野、唐津風の砂手の茶碗が多く、これもはとんどの製品に貫入が入っているのが特徴である。

また製品は抹茶碗を主に、、もっぱら茶の湯道具を焼き、江戸時代中期から、徳利や盃などの酒器、湯呑や急須などの茶器類が作られるようになった。

現在の製品は、茶の湯道具や花器などの美術陶器を中心に、湯呑みや急須、ぐい呑、徳利、菓子皿などの日用雑器も生産されているが、そのほとんどが黄瀬戸風のひび焼で、急熱急冷に耐え、火に強いのも一つの特徴である。

一方、砂手青磁は初代から焼いているが、今のような明るい色の青ひび焼を焼成するようになったのは天明(1781~88年)以後で、現代の一般の人には黄瀬戸風のひぴ焼より青ひび焼の深紅色の辰砂の抹茶碗や花鋲、油滴天自茶碗や酒盃なども作っており、釉薬は、並白という一般的な灰釉(藁灰、籾殻灰、柴灰)と貫入が入る青ひび釉が主であるが、独特の調合法による結晶釉の抹茶茶碗や壷なども見逃せない製品である。

田代家の窯は、開窯以来全く手が加わえられていないと言われている東北で最古の窯で、昭和40年には相馬市重要無形文化財、同43年には福島県民俗資料に指定されている。

大堀相馬焼は福島県双葉郡浪江町大堀の陶器で、この大堀相馬焼(大堀焼ともいう)の起源を知る資料のひとつに「奥相標葉郡大堀陶業濫觴」(近藤文書)という、安政2年(1855年)に書かれた筆者不詳の古文書がある。

それによると、元禄3年(1690年)ごろ、大川村の半谷休閑の左馬が西山(館の下窯)で甕や壷、鉢などの日用雑器を、また町方(田代窯)では藩用窯の駒焼を習い、のち、高瀬川対岸の井手村(浪江町井手)の美森山に良質の陶土を発見。それを原料にした茶碗の焼造に成功し、茶碗に駒絵を描いて売り出すと、大堀佐馬焼茶碗と呼ばれて地元の人たちに喜ばれた。そこで休閑は、左馬から製法を伝授され、本格的に大堀相馬焼か始まった、ということである。

次第に需要が増えたので、休閑は村人のうちの半谷八郎、小野田弥衛門、山田甚右衛門、半谷長右衛門の七人に陶法を授け、これを七人衆と称して、一子相伝、他見無用とした。

なお、ここで佐馬は他国のものであったため他に製法をもらす恐れがあるとして殺されてしまった。この佐馬とはいったい何者であったのか、今のところは何もわかっていない。

こうして休閑と七人衆は、製法を研究、改良し、製品も良質、多様化していくと一子相伝、他にご無用としたにもかかわらず、まぬる者があらわれ、天明三年(1783年)の飢饉後には、半農半陶で焼き始める者が増え、寛政から安政にかけて(1700年代後期から1800年代中期)陶家が百余戸に至ったものと考えられている。

相馬藩は大堀焼を特産物として独占しようとして、元禄十年(1697年)、瀬戸物師は国外に出てはならないという布令を、また享保十八年(1733年)に、「商売掟」として、今後瀬戸物は地元の物を使うようにとの布令を出している。

やがて大堀焼が民窯として盛んになり、業者が数を増してきた文化年間(1804~17年)には、藩は瀬戸役所を大堀に置き、資金の援助をしている.また、江戸と函館に販売所を置いて販路の拡大にも努めた。

さらに天保年間(1830~43年)になると、藩主がすぐれた陶工に「陶師」のお墨付きを与えて奨励した。現在わかっているのは、天保五年(1833年)にもらった井手村の宇佐美与右衛門と、同八年(1836年)にもらった大堀村の志賀七郎衛門と酒井村の渡部嘉右衛門の三人のみである。

大堀焼はこのようにして隆盛に推移して明治維新を迎えたのである。

しかし維新に入ってからは藩体制が崩壊したため、藩の資示援助が止まった上に、販売の手段もなくなり、大堀焼は衰退しかけたが、明治六年(1873年)ごろ、井手村の松永政太が鮫焼の土瓶を焼成し、「勿来焼(なこそ)」と名付けて、アメリカに大量に輸出して大好評を博した。しかし、この好景気も一時しのぎに終り、再び衰退の道をたどった。

第二次世界大戦中もわずかに生産し続けた大堀焼は、戦後再び活気を取り戻し、昭和二七年(1952年)ごろには、アメリカヘの輸出が再び始まりこの輸出ブームは昭和四八年(1973年)ごろまで続いた。現在はもっぱら内地向けの生産をしている。

いまの大堀焼は、湯呑、急須、徳利、盃などの茶器や酒器、それと花瓶が主な製品で、薄い青緑釉に貫入の入っているのが特徴だが、明治以前の古い大堀焼には現在の青ひびものはなく、灰釉や糠白釉をかけた壷や甕、のびのびとした絵付をした徳利(スズ)や皿などを焼いていた。

大堀焼の古い遺存品は数少なく、現存するものは稚拙な造りで素朴なものが多いが、どっしりとした安定感や淡い青緑釉の流れは、民窯独特の安らいだ味わいがある。

明治になると、鮫焼という釉がちぢれて鮫の皮のように小さい粒々が表面を覆うやきものの勿来土瓶が量産され、明治後期にかけては、熱さをじかに伝えるための二重焼の湯呑や急須などが焼成された。

大堀焼の象徴である青ひび焼と絵のはじまりについては定説がなく、青ひびについては文久三年(1863年)説、早くてもそれ以前という説、明治初年のろの説とまちまちで、いずれも確かな裏付けがない。

また、青磁の貫入焼はわが国では鍋島焼以外民窯にはばとんど例かないが、大堀のものは素地が荒いため肉厚となリ、湯茶がさめにくく、熱湯をそそいでも割れず、熱さを指に伝えにくいのが特徴である。

駒絵については、御用窯の田代に限られていたので、大堀でいつごろから描かれるようになったかは断定できないが、文化・文政のころの徳利に、一頭の駒の絵が描かれたものがあるので、駒絵の始まりは、天保よりははるか以前かもしれない。

なお、大堀には専門の駒絵師はいて下絵を描いていたが、現在は二人のみのなってしまい、後継者のないことが悩みとなっている。

駒絵は左向が普通で、奇数が縁起よい数といわれている。

会津本郷焼(あいづほんごうやき)

会津本郷焼は、民芸研究家柳宗悦氏らによって再認識されたやきもので、とくに黒飴釉になまこ釉をかけた、にしん鉢は有名である。 福島県大沼郡本郷町(会津若松市近く)を中心として焼かれ、「本郷焼」「会津焼」ともよばれ、陶器から磁器に発展していったものであるが、現在は陶器と磁器が共存している。

会津本郷焼は、文禄2年(1593年)蒲生氏郷が城郭を修理するため、播磨から石川久左衛門他三人の瓦師を招いて、黒い屋恨瓦を焼かせたことからへ始まったといわれている。

しかし会津で本物の陶器が焼かれたのは、正保四年(1647年)、会津松平藩の祖である保科正之が、当時岩瀬郡長沼に在住し陶器を焼いていた美濃国(岐阜県)の陶工水野源左衛門を若松城に招き、やきもの御用を命じて以来のことである。

当時焼いていたものは、主にに茶器でわずかばかりの日用雑器も作っていたが、その後本郷山近くに豊富な陶土が発見されるにおよび、会津のやきものは、代々水野家によって、御用茶碗のばか日用さまざまな器か焼き続けられ、藩主による保護・奨励は非常に厚く、御用品はすべて水野家が独占していた。

磁器の本格的出現は江戸時代の末になるが、会津藩ではそれより以前の、安永6年(1777年)に江戸から陶工近藤平吉を招いて磁器を焼いてみた。

しかし、平吉は楽焼師だったため途中で挫折。次に佐藤伊兵衛吉が白磁の研究に乗り出し、志戸呂・常滑・瀬戸・信楽・清水・有田・萩などの諸窯を視察し研究をはじめ、23年目にしてようやく白磁の焼成に成功した。

その後、磁器の生産は非常に伸び、陶器の業者たちはいづれも磁器に転向することになった。

なお、文政年間(1818~1829年)に入って、伊兵衛の弟子、幸右衛門は責焚きの手法を見出し、より優れた磁器を完成させている。

会津本郷焼に、石膏型の応用法が初めて導入されたのは、明治18年(1885年)であるが、一般に取り入れられたのは昭和10年(1935年)からで、そのころ需要の多かった鉄道茶瓶などを焼くのに用いられた。

会津本郷焼の磁器の原料は、石英粗面岩質のものが多く、その窯式や窯詰法は、尾張(愛知県)および肥前(佐賀・長崎県)などの方法をとりまぜた特殊な方式で、また会津本郷焼の特色は、素焼きをしない焼成法であり、また白や緑や飴やなまこ釉をかけ流しにした雑器が多い。

ここでは大ぶりで力強い形の急須、土瓶などの袋物やにしん鉢、また焼物の愛好者達に高く評価されているべろ藍の鉢、徳利などが焼かれたが、明治中頃から電気用碍子類が盛んに作られた。この会津本郷焼の特産品であるにしん鉢は、昭和33年(1958年)のブリュッセル万国博でグランプリを受賞している。

現在は、磁器の富三窯、大量生産している酔月窯、粗物の宗像窯・陶楽窯などを中心に12の窯元が日用雑器を焼成している。

福良焼(ふくらやき)

文政10年(1827年)福良村(福島県郡山市湖南町)の人、長谷川兵夫が会津本郷焼の盛大なのをみて、同村館下に築窯製陶を始め、藩主松平容保に願い出て、天保10年(1839年)から福良でも染付磁器を焼いた。

陶土は長沼の勢至堂本坂土を基礎に、三代村(郡山市湖南町三代)の唐沢土を混用。釉薬には勢至堂馬尾滝の白土と湯本村大槻土を混ぜ、それに欅灰を調合して用いたが、嘉永年代(1848~1854年)には村で製陶を始めるものが増え、13戸にも及び、館下にも5基の窯が築かれ盛栄した。

元祖兵夫は文久3年(1863年)没したが、二代目清吾は優れた腕の職人で、稼業はますます繁栄したが、まもなく維新の会津戦争となり陶業は一時休止となった。

福良焼は明治になって事業はますます拡大。明治中期には絶頂の繁栄を示した。二代目清吾は明治23年(1890年)没。稼業は三代栄治が継いだが、明治20年東北本線が郡山まで開通して瀬戸・美濃地方の焼き物がこの地方に流入するようになり、さらに明治25年岩越線(現在の磐越西線)が会津地方に延びると、福良焼にとって致命的な打撃となり、そのころから休窯状態に陥り廃窯となった。

製品としてはべろ藍の染付鉢・摺絵の皿などに優品があり、古美術店では会津本郷焼として売られていることが多い。

二本松万古焼(にほんまつばんこやき)

二本松万古焼は岩代国(福島県)安達郡二本松の近くのやきもので、寛永20年(1643年)に二本松藩主丹羽左京太夫光重が京都から陶工を招き、桑名の万古焼を模造させたのが始まりである。

このやきものは手びねり型崩しという製法が特徴であり、この技法は江戸末期のころ山田春吉によって伝えられたとおわれている。釉薬はほとんど使わせず、色はみな黒みがかった褐色で、渋くて落ち着きがあり、鈍い光を放っている。また、焼き締めが強く磁化しているので、たたくと金属的な音がする。

代表的な製品は指押し文手びねり型崩しの急須(地元ではきびしょという)や湯呑み、轆轤を用いた花器や酒器などがある。また、花器の中には飛鉋を施したまのもある。

この窯は何度か途絶えたが、昭和30年(1955年)まったくの素人である井上善四郎が四日市へ修行に行き、二年後に開窯し、二本松万古焼を復活させた。この窯では数年前から糠白や飴釉をかけた片口、飯茶碗、小鉢なども焼き始めた。

なお、秋田万古や福島県田島万古は二本松万古の流れではないかと考えられている。

館ノ下焼(たてのしたやき)

福島県相馬市にある窯で、現在では素焼きの蛸壷や土管を焼く程度だが、幕末から昭和初年までの発見で、開窯した時から日用雑器を焼き続けていたことがわかった。

開窯年代は明らかではないが、大堀相馬焼の半谷休閑の下僕佐馬がこの館ノ下窯で修行したとの説もあるので、元禄(1688年~)以前に開窯したのではないかと考えられている。相馬藩家老岡田監物の家臣たちが相馬中村付近で副業として庶民の日用雑器を焼いたことから始まった民窯らしい。

同市の相馬焼とは違った系統で、宮城県仙台市の堤焼と良く似た陶法によって作られる。鉄釉に糠白を流す手法が特色であるが、鉄も糠白も窯の調子で色々な変化を見せ、それがとてもおもしろい。

館ノ下焼の製品としては、大壷、大甕、鉢、片口、徳利、植木鉢などの日用雑器があげられ、どれも伝統にふさわしい風格があり、頑健さを誇っている。

現在は旧藩時代からの窯である今野福身と、戦後はじめた志賀二郎の二軒が、素焼の植木鉢や、季節によっては蛸壷と土管を焼いているだけである。

赤井焼(あかいやき)

磐城国磐前郡赤井村(福島県いわき市平赤井)のやきものである。ここでは、鎌倉時代に須惠器が焼かれていたと言われているが、確証はない。

慶応年間(1865~8年)に大堀焼の陶工が来て粗陶器を焼いたのがこの焼物の始まりで、明治時代には窯元が12軒あり、大正時代には5軒になり、昭和46年(1971年)に、最後の窯元、鈴木義隆が廃業して赤井焼の火は消えた。

赤井焼の明治時代の製品を見ると、甕や擂鉢は赤釉。スズうあ鉢は糠白、並白、黒釉などが使用されていたらしいが、大堀相馬焼と同じような製品が数多く残っている。

伊達焼(だてやき)

伊達郡伊達町(福島県)の北端、桑折(こおり)町に接するあたりで焼かれたもので、1980年4月、伊達町教育委員による発掘調査の結果、半地下式の穴窯跡を発見し、ここから仙台の堤焼・相馬館ノ下窯の物と見紛う、まったく同じ手法の形態・釉薬の水甕・捏鉢などを発掘した。

堤焼・相馬館ノ下焼と伊達焼には何らかの技術の交流があったのであろう。

後藤焼(ごとうやき)

岩瀬郡牧本村後藤新田(福島県同郡天栄村)にあった窯で、寛政8年(1796年)松平定信の命により、白河藩の御用窯として発足した焼物で赤褐色の粗目の焼き締めた地肌に海鼠釉を流れかけたのや、褐色に近い飴釉を施した壷や徳利は、独特の力強い味のものである。

しかし、後藤焼は昭和10年ごろ廃窯をなった。

田島万古焼(たじまばんこやき)

江戸末期、南会津郡田島町(福島県)に築窯した御用窯で、愛宕山城の近くの土で焼いた独特の手捻りによる形成方法のやきもので、「鴫山万古」と名付けられた。昭和12年ごろまで操業していた。

名古曾焼(なごそやき)

別名、窯田焼。昭和49年(1974年)の発掘調査で発見された、いわき市勿来(なこそ)町の窯田熊道にある古窯。

この窯は元和8年(1622年)9月。窯田藩祖、土方雄重(かつしげ)が藩窯を築いて領内産業の拡大をはかったのか始りであるといわれている。

発掘されたやきものは瀬戸・美濃系統様式の茶器・土瓶・片口・皿などの陶片で、すべてに「上」「イ」「×」馬蹄形などの窯印があった。

福島焼(ふくしまやき)

明治の初め瀬戸加賀屋によって信夫山下、祓川(はらいがわ)の南に開窯したやきものだが、大正年間までに廃窯した。

会津本郷の職人で後藤窯にいた者きて染付磁器を指導し、おもに徳利・杯・のち花瓶・鉢などを焼いたが、なかには染付に辰砂を用いたものもある。作行きはぼってりと手取が重い。

棚倉焼(たなぐらやき)

明治5年(1882年)高野郡伊野村(福島県東白川郡棚倉町)に開窯、甕・擂鉢などを製造したが、明治13年(1890年)白河に移ってから中絶した。

その後、明治19年(1896年)栃木県那須郡馬頭町小砂から市川鷹蔵なる者が来て操業、粗物陶器を主に生産、鷹蔵の息子健蔵が跡を継ぎ昭和の初めまで操業したが、健蔵が死亡して廃窯した。

この窯は明治の半ばごろ部内鮫川村に原料を発見し、さらに会津本郷から数名の職人を招いて染付磁器の鹿子焼を生産している。

勢至堂焼(せしどうやき)

福良の陶工二瓶豊三郎が明治初年に勢至堂本坂に築窯したもので、明治29年(1896年)ごろには渡辺一之助・吉川忠三郎らが開窯し、窯は三基となった。 しかし、明治34年(1901年)ごろ衰徴し廃窯した。

製品は勢至堂の原土を使い、釉には勢至堂馬尾滝の白土と本坂土を等分に混ぜ欅灰を加えて作ったもので、酸化コパルトを使った摺絵による手法は会津本郷焼のそれと共通したものがある。製品は日用雑器が多い。

蚕養焼(かいようやき)

文政年間(1818~1830年)木忖左門が本郷村(福島県)から陶土を持ってきて、蚕養町(会津若松市)に開窯し、大正中期ごろ(1920年ごろ)まで主として染付摺絵の日用雑器が焼かれたが、作ゆきは会津本郷焼とよく似ている。

長沼焼(ながぬまやき)

会津藩主保科正之に招かれ、会津本郷焼を開窯した陶工水野源左衛門・長兵衛が、それ以前に長沼町(福島県岩瀬郡)で焼いていたと言われている窯があったが、製品は素地が磁器と同じくらい細かいことや櫛目か箆で彫られている模様は瀬戸焼と似ている。

なお長沼にはこのほかに長沼の矢部富衛門が慶応2年(1866年)に築いた窯があった。

その製品は勢至堂から運んだ土で焼き、アメリカから輸入された酸化コバルトを用いて、型紙による摺絵(ステンシル)の技法で作った日用雑器であったが、大正時代に入ると廃窯となった。

慶山焼(けいざんやき)

文久年間(1861~1864年)渡辺久吉が会津若松東山町に築窯し、会津本郷から陶工を招いて陶器を焼き始めたが、大正初期(1915年ごろ)良質粘土の不足が原因して廃業となる。製品は瓦・土管・擂鉢・甕・土瓶などの日用雑器を焼き、また若松連隊兵舎の煉瓦塀も焼いたと言われている。飴釉の土瓶、徳利などに味わい深いものがある。