川合玉堂(かわい ぎょくどう)

生涯

1873年〈明治6年〉 – 1957年〈昭和32年〉

本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)で、筆墨紙商の長男として生まれる。 14歳で京都、四条派・望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を得る。23歳の時に上京し橋本雅邦に師事する。1898年(明治31年)、岡倉天心、橋本雅邦、横山大観らの創立した日本美術院に参加。1915年(大正4年)、東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)に帝室技芸員に任じられる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章。1933年(昭和8年)にドイツ政府から赤十字第一等名誉章を授与された。1940年(昭和15年)、文化勲章を受章。1957年(昭和32年)、心臓喘息で死去。享年83歳。正三位・勲一等旭日大綬章を没時叙勲。

評価額 7000万円

収蔵作品