秋野不矩(あきの ふく)

生涯

1908年(明治41年)- 2001年(平成13年)

神主の父惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれる。本名はひらがなで「ふく。日本画家沢宏靱との間に6人の子を儲けた。絵本画家の秋野亥左牟は次男。静岡県二俣高等女学校から静岡県女子師範学校二部へ進学。1926年(大正15年)卒業後、龍川村の横山尋常高等小学校に赴任するが、1927年(昭和2年)教職を辞して千葉県大綱町の画家石井林響の内弟子となる。1929年(昭和4年)京都、西山翠嶂の画塾「青甲社(しょうこうしゃ)」に入塾。1930年(昭和5年)、帝展にて初出品・初入選して以来入選を重ね、無鑑査者となる。1948年(昭和23年)同門の上村松篁・沢宏靱・向井久万・広田多津らと新しい日本画の団体「創造美術」(現創画会)を結成。1949年(昭和24年)京都市立美術専門学校(のち京都市立美術大学、現京都市立芸術大学)において、助教授・教授職を25年勤続し定年まで勤めた。1999年(平成11年) 91歳で文化勲章を受章。2001年(平成13年)美山町の自宅で心不全で死去。享年93歳。1962年(昭和37年)現・タゴール国際大学(西ベンガル州・シャンチニケタン)の日本画客員教授としてインドに渡ると、その後生涯で14回インドに訪問し、インドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。インドの豊穣で過酷な自然と対峙して、そこに生きる人々や生きるもののたくましさを、瑞々しい色彩とダイナミックな筆遣いにより表現し、生命感溢れる作風を確立した。

評価額 600万円

収蔵作品