菱田春草(ひしだ しゅんそう)

生涯

1874年(明治7年) – 1911年(明治44年)

長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝国大学、東京帝国大学教授。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1898年(明治31年)、岡倉が東京美術学校校長を辞任し、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と共に美校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加。1903年(明治36年)、大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)、岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国。1906年(明治39年)、日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作。1911年(明治44年)、腎臓疾患(腎臓炎)のため死去。享年37歳。春草、大観らは、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」と揶揄された。

評価額 8000万円

収蔵作品

 mouse鹿

本紙 108.5 × 41.3センチ

軸  201.0 × 59.7センチ

菱田春夫(菱田春草 長男) 識箱

菱田 駿(菱田春草 三男) 鑑定書

静寂の林の中に佇む鹿は深い精神性を秘め、凛とした厳しさを見せています。毛並みの一本一本が緻密に生き生きと描かれ、また足元の草花や薄墨が林の中の空気感を見事に描き出しています。春草はこの作品と同様の鹿の絵を数点描いています。