青森県の陶磁器

悪戸焼(悪土焼
 悪戸焼は、現在の津軽焼の元祖といわれるやきもので、文化3年(1806年)ごろ、湯口村の人、石岡林兵衛が羽後国十二所村(現秋田県大館市十二所)から陶工源七を招き、青森県中津郡相馬村下湯口扇田に窯を開いたのが始まりだが、実際に稼動したのは、その後再び羽後国から清兵衛、永之松を招いてからである。
 のち津軽藩の庇護をうけて茶器を焼成しながら、一般向けの日用雑器を焼き続けた。文化、文政年間(1804~1829年)には扇田に、明治に入ってから青柳に窯を移したので、別名扇田焼、青柳焼または津軽焼とも呼ばれるが、大正8年ごろ(1919年)廃窯している。
 悪戸焼の製品は、焼成温度が低く上手のやきものではないが、黒い肌の天目釉が中心で、銅を帯びた青色の無地、それにイッチンを掛けたもの、窓絵が少しある染付なども素朴で暖かみのあるものが多い。
 昭和29年、早川貞之によって復興され、現在は津軽陶園や錦光陶苑が中心となって花器、酒器、茶器、洋風の食器などを焼いている。
下河原焼
 陸奥国弘前下川原(青森県弘前市)で、文化年間(1804~1818年)から明治維新(1868年)になって弘前藩が廃藩になるまで約60年近く磁器や土人形を焼いた、悪戸焼に次ぎ長期間操業した窯。
 製品は火人・香炉・仏花器・徳利・植木鉢・飲茶碗・水注・八角鉢があり、青磁のものや瑠璃釉のものがある。
 書鉢に「ツガル」「ヒロサキ」「弘前」「篠制」「高屋金蔵」「下金」が印されている。別名篠沢焼とも呼ぶ。
大沢焼
 弘前藩士高谷金蔵が文化3年(1806年)ごろ石川村人沢(南津軽郡石川町)に開窯し、磁器を主体に白磁、染付磁器などを多く焼いた。
 遺品は少なく、徳利・香炉・根付・仏花器・水滴・サイコロなどがある。
銘のないものがほとんどだが「大沢製」とあるものがわずかにあるようだ。
 製品は厚ぼったい器胎に細かい貫入の入った軟らかな胎の白磁類が多く、染付け安南焼のしばり手のように藍の線が滲み流れて味わいがある。