岩手県の陶磁器

小久慈焼
別名久慈焼ともいわれ、熊谷甚右衛門が磐城国(福島県)で相馬焼の陶工、田代清治衛門に手ほどきをうけ、文政5年(1822年)ごろ、陸中国(岩手県)九戸郡長内村大字小久慈に開窯したことから始まった。
当初は八戸藩主の御用窯たったが、のちに日用雑器を作る民窯に転じた。
久慈焼の古作の特徴は、ひきしまった形と暗褐色の肌の上に掛けた焦茶色の飴釉で、これはしっとりと落ち着いた人々の生活感を思わせる。これに対してしゃれた感じの白釉がけも美しい。
東北では珍しい蕎麦猪口が作られたが、現在は小久慈焼の代表といわれる片口をはじめ、丼鉢、擂鉢、皿、飯茶碗、土瓶、湯呑などを焼いている。
急須は、大きくふくらんで会津本郷焼のそれとよく似ており、片口も雄大である。

鍛冶丁焼
文政年間(1818~30年)に古館伊織が岩手県花巻市鍛冶町に窯を築き、のちに南部藩の御用窯となって日用雑器を焼いた。
明治末期になって、本家は家業不振となって廃業し、この後は分家によって細々と窯の火が守られることになるが、これも昭和14年には絶えてしまった。
現在は、益子や相馬で陶技を学んだ阿部勝義が昭和22年に再興、花巻市石神町滝ノ沢に登窯を築き、重油やガスに頼らない古い方式で鍛冶丁焼を焼いている。
鍛冶丁焼の古作には、灰釉による黒や鉄、糠などが多いが、現在作られている作品も糠や灰釉、または栗飴などの釉を主にした花器、茶器、酒器類が多い。
また、鍛冶丁焼では、粗い粘土を一年ほどねかせて使う、原始的な片法を今でも採用しているのも一つの特色である。
山蔭(やまかげ)焼
南部盛岡藩内で使用する日用雑器を作るため、天保6年(1835年)盛岡八幡山蔭(盛岡市茶畑)に開窯された。
製品は染付磁器の日用維器が多いが、床置・香炉・香合や水滴・茶器類などもある。
竹虎・南部奔馬・花丸四君子・宝珠などの手焙の絵文様は山蔭焼の特徴であるが、染付の模様は伊万里焼と似ている。
器に「御膳所」「北地所」なビの役所名が記されているものや「山蔭造」という銘款の入ったものがある。

長島焼
これは西磐井郡平泉町のやきもので、束稲山のふもとに通称瀬戸屋と呼ばれている吉家武美家があり、その元祖が焼きはじめたというのがこのやきものである。
創業年代は定かでないが、古文書によると嘉永4年(1851年)には既にかなりの生産量があったとされ、その時代より数年は遡るであろう。
製品は、大小の甕や土鍋、土瓶などあらゆる日用雑器に及び、代表的な製品として牡丹を浮き彫りにした型物の角皿、なまこ釉の大甕などがあげられる。
この窯は、明治のはじめごろ廃窯となっている。

南部焼
盛岡市上米内赤坂のやきもので、弘化2年(1845年)に、盛岡藩主、南部利剛侯が京都のの楽焼の陶工八十八を招き、焼かせたお庭焼として始まった。
窯の名は盛岡城にちなんで不釆方窯といい、現存は本村捨次郎氏がここで作つている。

花古(はなこ)焼
新庄東山(岩手県)で焼かれた。廃絶した盛岡藩窯を、新たに開窯したものといわれている。
製品は山蔭焼と同様で、染付磁器が多く、丼・鉢・火鉢・皿・湯呑・茶碗・銚子・徳利・土瓶・急須・筆立・植木鉢・花生・香炉・茶壷など多種である。文様は花卉・山水が多い。
「大明年製」「御膳所」「久O(判明不能の文字)」などの文字が入ったものがある。

赤萩焼
江戸末期(一説に文化年中)阿部家の佐一郎・幸右衛門が山目村(岩手県一関市山目町赤萩)で開窯したといわれている。製品は日用雑器が多く、火消壷・甕類などで、黒焼壷や骨甕など、民俗学的なものもある。

花巻焼
現在窯は花谷市桜町(岩手県)にあるが、開窯年代などについての詳細はわからない。製品は山陰焼・花古焼と非常に似ていて、やはり染付磁器で、日用雑器を焼いていた。