秋田県の陶磁器

白岩焼
秋田県の陶芸の根幹といわれる白岩焼は、相馬系のやきもので、大堀川馬焼の陶工松本運七が明和4,5年ごろ(1767,8年)、秋田県仙北郡内仙北町上川心像(こころやり)地内(今の角館)で製陶したことに始まるが、明和8(1771年)角館町白岩に窯を築き、それ以降白岩焼と称されている。
釉は糠白、鉄釉、黒釉で、製品は甕、すり鉢、徳利、片口、鉢などの日用品が主である。また、器面に模様を彫ったものもあり、当時の技術の高さがうかがえる。
白岩焼の窯は、明治29年の震災で一度つぶれ、その後再興したが振わず、120年間続いた白岩焼も明治33年、ついに絶えてしまった。
この窯の復興は、昭和49年に始まり、これは故浜田庄司氏とその次男晋作氏の力によるところが大きい。現在は久右衛門窯、和兵衛窯、興吉窯などが白岩焼を焼いている。

楢岡焼
楢岡焼は、相馬焼の陶工松本運七が明和年間(1764~71年)に秋田県で始めた、白岩焼から天明7年(1787年)に、秋田市の寺内に移り、さらに文久3年(1863年)に陶工小松清治が寺内窯から技法を授かり「楢岡焼」が始まった。
当初は甕、壷、鉢、片口などの日用雑器を焼いていたが、現在は酒器、茶器、花瓶、灰皿、徳利、急須、茶碗など、北国のやきものらしく、“厚み”のある素朴であたたかみを備えた製品を作っている。
釉は主に濃い褐色の釉と青白色のなまこ釉のものが多いが、特に日本海の深さを思わせるような青白色の釉は「楢岡焼独特のなまこ」と有名である。

秋田万古
南秋田郡保戸野愛宕町(現秋田市保戸野)のやきもので、明治の初め佐伯孫三郎が、同郡寺内村山中の赤土、新藤田村の粘土および河辺郡牛島村の青色粘土を使用して同郡泉村に開窯した。
明治5年、孫三郎は(息子の貞治という説もある)福島県二本松の陶工村田鉄之助を伊勢の万古焼に学ばせた。
秋田万古は、非常に精巧な技術で特徴があり、特に鈴木緑園らは、多くの名作を焼いている。製品は主に煎茶の器物で、色絵や金銀彩などを施し、遊環や彫刻など手の込んだ装飾もなされ ている。
明治15年には、磁器の焼成に失敗し、二代目貞治の時に秋田万古は絶えてしまった。
なお、秋田万古を秋田焼としている場合もある。

松岡焼
湯沢市の西の、松岡村の近くの松岡金山が不振のため、同県内の阿仁から来た人々によって、松岡焼が始められたといわれている。
一時、津軽焼の石岡弥惣兵衛がこの辺を訪れ、後に白岩の陶器総問屋、下田忠右衛門が継承。また、天保4年(1832年)には横手市の中山焼の樋渡宇吉(卯吉)も来窯している。
松岡窯は、精良な白磁の染付を作っていたが、先の下田忠右衛門の勢力の衰えと共に明治初年に絶えてしまった。

八橋(やはせ)焼
秋田市八橋のやきもので、現在は伏見人形系の土人形が有名だが、かつては本格的な陶器製造地として知られている。
この窯は安政年間(1854~60年)、南秋田郡八橋村の骨董商大久保喜兵衛の養子寅吉が開いたもので、明治の中期に、震災により一時打撃を受けたが、土風炉や七輪などを細々と焼き、昭和22年まで続いた。
作品は染付磁器、上絵付、楽焼などで、彼の陶技の影響は、八橋焼のみならず秋田領内の各窯にかなりあったと考えられている。

牛島瓶座(うしじまかめざ)
渡部東吉が文政2年(1819年)秋田市内太平川の南岸に創始した。製品は常滑風の技法で作った大甕や、陶管、煉瓦がある。
昭和初期に廃業となっている。

桧山(ひやま)焼
矢口角治が桧山町(秋田県能代市桧山)で、弘化2年(1845年)に始め、遺品には雑器や京焼風のものがみられる。

五城目(ごじょうめ)焼
記録によると、天正13年(1585年)尾張国丹羽郡犬山下瀬戸(秋田県犬山市)から、五戸の陶工が五十目(南秋田郡五城目町)に移住し、主に褐色釉の日用雑器を焼いたとある。