山形県の陶磁器

平清水焼
窯が山形県の千歳山麓にあったので千歳焼ともいわれるが、これは羽前国村山郡滝山村字平清水(山形市平清水)のもので、平安時代に寿岳大師が村人に焼成方法を教えたという伝説もあるやきものである。
平清水に開窯されたきっかけは、江戸時代の文化年間(1804~17年)この村の丹羽治左衛門が、隣村の金谷(上山市金谷)にいた常陸国(茨城県)の陶工小野藤次兵衛を招き、丸山の土で陶器を作ったことにある。
文政8年(1825年)になると、治左兵衛は磐城国相馬(福島県相馬市)の安部覚左衛門と共に新窯を設け、千歳山の良質の粘土を用い陶器を焼いた。
一方、小野藤次兵衛は各陶業地を視察し、製陶の改良を図るが、志半ばで倒れる。しかしこれは、後の磁器風の白釉妬器の焼造に大きく寄与している。
弘化4年(1848年)、磁器の製造に成功以来、ここでは陶磁両方を作っており、平清水焼の代表的な製品としては、白釉をかけた上に染付や暗緑色の釉で彩画した、三彩風の徳利や、暗緑色の釉のみがかけられた大甕や壷を生み出している。
明治から大正にかけては、この絵付も呉須からヨーロッパ産のコバルトに変り、暗青色になった。しかし、この後、平清水焼は衰退の一途をたどっていくのである。
現在はまた陶器が主流になり、工芸品や生活雑器が生産されている。ころも釉をかけた白色のものや、鉄釉をかけた茶色のものも美しい。

新庄東山焼
新庄市東山町の陶器で、新庄焼とも東山焼とも呼ばれている。創始者涌井弥兵衛は、福島県の大堀相馬焼、山形県の平清水焼の創始者丹羽治佐衛門に陶技を学び、天保11年(1840年) には、津軽(青森県)弘前に赴き、肥前の宇吉と石焼を試みたが、うまく行かず、翌年京都への旅の途中、新庄に立ち寄り、その時東山の土がやきものに適していることを発見してやきものを始める。
弘化3年(1846年)ごろになるとその製品は、酒田、庄内地方にまで広がってゆくが、製品は瓦や土鍋程度の土焼物にすぎなかった。
弥兵衛は明治に入って、白磁の製作に着手し、出し茶碗、小土瓶、小丼、神酒すず、爛すず、花立、湯呑、水入などを焼いている。
弥兵衛の息子の代には、石焼を完成、現在は五代目弥兵衛が継いでいるが、三代目からはもっぱら土物を焼き、土鍋、蓋鍋、行平、片口、徳利のほか、花器、酒器、茶器、灰皿などの日用雑器を製作している。
また新庄東山焼で有名なものに三本足付きの土鍋がある、この足は、底より上の方に付いていて、実用的には何ら意味をなさないが、この造形が、逆に地方色豊かで素朴な味をうち出し、なまこ釉のかけ方も美しい。三本足の用途は未だに解明されていない。

成島焼
羽前国南置賜郡広幡村(山形県米沢市広幡町)の陶器で、江戸時代末期、上杉藩中興の祖鷹山山(治憲)が、殖産政策のひとつとして天明元年(1781年)、成島村矢子山に窯を築かせ、工藤某にやきものを焼かせたのが始まりと伝えられている。
当時、まだやきものがなかった米沢でも、陶器製作が企図されて、安永7年(1778年)花沢村に窯を築いた。その後相良清左衛門に相馬で製陶技術を学ばせ、良土の出る成島に窯を移すが、上杉藩では絵付けを禁じ、丈夫さを尊び、形を決めて成島焼の特徴を定めたために、製品も漬物甕、水甕、油入、鉢、茶碗、皿、植木鉢などの日曜雑器に限られていた。
明治の中ごろには遠く仙台や青森まで販路を伸ばすまでになり、最盛期を迎えるが、明治も末期になると、伊万里や益子のもの、それにガラス製品などに押され、廃業してしまった。
成島焼の特徴は独特の釉と厚手で重厚なデザインにあるといわれ、色は黒褐色や青縁色で、それに白い流しかけをしたものもある。
現在の成島焼(和久井窯)は長井市今泉にあり、ここでは、成島焼の伝統を受け継ぐ、鉄釉に藁白釉を流した花器や茶器、酒器などが焼成されている。また、米沢の成島(米沢鳴洲窯)でも茶碗などが作られている。

相良(さがら)焼
出羽国米沢(山形県米沢市)花沢弓町で、寛政、享和(1789~1804年)年間、米沢藩主上杉鷹山侯の命により、藩士相良清左衛門が相馬焼を学んで帰り、製陶を始めた。
のちに彼は京都に上り、伏見人形を見て感じるところあり、これを真似て「相良人形」とし、製陶のかたわら焼成した。古い製品には巧緻優雅で愛すべきものがあったが、時代とともに質が低下している。

大宝寺(たいほうじ)焼
文政年間(1818~30年)鶴岡子の大宝寺町と新町で、五十嵐大平が最上栄吉らとともにに陶器を焼いたが、その後も継続し約100年間焼かれた。
製品には、筆筒・煙草盆・火鉢・湯通・徳利・鉢・片目などがあるが、筆筒・煙草盆・火鉢は国の重要民俗資料に指定され、鶴岡市内の博物館に収められている。

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